《日産の歩み》
1910年鮎川義介が戸畑鋳物㈱を設立。
翌年1911年橋本増治郎が快進社自動車工場を設立、国内自動車産業のさきがけとなる。1914年快進社に出資した田・青山・竹内の頭文字を取ってダット(DAT)自動車が完成。
1931年にダット自動車製造㈱が戸畑鋳物㈱の傘下に入る。
1933年戸畑鋳物と日本産業が共同出資し自動車製造㈱を設立、翌年1934年に日産自動車㈱に社名変更。
1936~1945年生産のほとんどは軍需によるもの。 第2次大戦から立ち直り1970年初めには国内自動車市場のシェア33%を獲得しトヨタに次いで2番になる。しかし、その時代を頂点に日産は衰退の一途をたどった・・・。
1.なぜ、経営不振に陥ったのか?
PEST分析
Politics | Economy |
■1970年代に排ガス規制あり、車の性能よりも環境対応を優先 ■米国政府は日本の輸出攻勢を批判、外交問題に発展。 ■1973年為替の変動相場制への移行。1985年プラザ合意でドル安・円高傾向。 | ■1980年、日本の自動車生産台数が1,100万台を突破し世界一になる。 ■実質GDP成長率が高度成長期に6~10%、バブル期には6%、その後は3%を超えることがなかった。 ■完全失業率は1970年まで1%、1980年代は2%、1990年代で4%へ上昇。 ■世界における日本車のシェアは1980年代は28.7%、1990年代には34.9%。 ■1980年後半には高級車やスポーツカー、ファミリーカーなど多種多様な車が登場。 |
Society | Technology |
■人生80年時代、女性の平均寿命が80歳を超える。 ■日本ではバブル全盛の1988年、日産・シーマ、トヨタ・セルシオなどの高級車が登場。「シーマ現象」や「ハイソカー」が流行語となる | ■空力が注目され高性能化が進む。1982年アウディは空気抵抗の少ない車体「フラッシュサーフェスボディ」を実現。 またリトラクタブルヘッドライトも高速で走行する自動車に採用。 ■エアバッグやABSなどの安全装備も徐々に普及。 |
5F分析
[自動車業界の特徴]
1970~1980年代には日本の自動車生産台数は530万台から1100万台に増加し、世界一となった。背景には高度経済成長があり、日本のモータリゼーション(特定化された国の経済・所得が上昇して車が一家に1台普及するプロセス)が急伸したことが挙げられる。また日本車の特徴でもある小型で丈夫で燃費がいいことが国際的にも評価され輸出台数が伸びたことも大きな要因である。
1973年の為替変動制から円安の恩恵が薄くなっているため、今までの利益率を確保するためには生産コストを抑える必要がある。
ユーザーのニーズも多様化。安全装備の普及や高性能化で車の車種も多種多様になる。トヨタ、ホンダなど国内の競合とも熾烈な競争環境。
KBF | 壊れない、価格、メンテナンス、安全、燃費や性能 |
KSF | コスト>品質>サポート |
【日産の戦略】
国内へ巨大製造工場建設を予定。国内生産台数を150万台に増加させる計画。
(ここで湧き出る疑問)
なぜ国内?海外(現地)工場ではなかったのはなぜ?
KSFの優先順位の1位はコストだが、なぜ高コストの国内生産にこだわったのか?
なぜ経営不振に陥ったのか?(結論)
円高傾向により輸出売上に対する利益が減少。海外拠点での生産を拡大しコスト削減を進めなければならないが、国内生産に巨額の投資をしてしまい、さらなる財務面悪化を招く結果につながってしまった。
また海外での販売網がトヨタに比べ構築がうまくできておらず、うまく売上につながらなかったと推測する。トヨタには「トヨタウェイ」など、文化面で全く異なる海外でもトヨタの企業文化を浸透させる施策を打ち成功を収めたが、日産の当時の取り組みはどうだったのだろうか。「技術の日産」と呼ばれ、技術面では自他ともに認める企業だったが、優れたものを作れば売れるという偏った考えになっていた面もあるのかもしれない。
続く...
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